홈으로 歴史/文化 > 洞名の由来

洞名の由来

南川 (ナムチョン)洞

南川洞という名称の由來は大淵(デヨン)洞と南川 に因んだ地名です。
南川里の名称に関した考証によれば、東莱府誌の山川条には南川が東莱城から8kmほど離れていたと記されています。
一方、府誌の浦のくだりには南川浦が見え、南の方8kmのところに位置して漁場があったとあります この漁場の一帶が南川湾と呼ばれ,ナムチョン南川洞は南川湾と大淵洞間の海岸を通称していたと思われます。
昔の東莱府地図によると牛岩半島の端をオヘヤ港と言って大淵洞の石浦から隆起した山地の北岸を南川と呼び,南川が廣い地域だったことを示しています。

水営 (スヨン) 洞

水営洞は朝鮮時代、慶尚南道の水軍節度使営があって、水営という名称は水軍の「水」字と節度使営の「営」字を取り、今の洞名になりました。
T元来慶尚左水営は釜山の戡蠻浦にあったが太宗時代、蔚山(ウルサン)の開雲浦に移轉し、世宗25年、東莱南村(現水営)に移しました。
その後、仁宗13年(1635年)に水営川の洪水で水路が浅くなり、兵船の出入と停泊に支障を来たし、戡蠻浦に移しましたが玄宗3年(1652年)にまた東莱南村に移し、高宗32年(1895年)まで、約243年間も続いている地名です。
水営では周り1.193歩、高さ13尺のスヨン水営城が築かれ、城内を水営洞と言いましたが,しだいに区域が広くなり今の水営洞は東莱府南川村の1洞15里の中で東部里、西部里、北門外里、南門外里の4里がこれにあたります。1895年、舊郡制を廢止して日本が朝鮮を合併したあと、ここを水営としたのが1942年10月1日、市区擴張によって釜山に編入され、水営出張所が設置されました。

望美 (マンミ) 洞

高麗時代の忠臣である鄭敘が國王の命で、故鄕の東莱に左遷されて暮しても毎月、一日と滿月の日に王を想い遙拝したということから望美洞という名称が付いたという説があり、または盃山と望山に關係があることで、蓮山洞側の盃山のふもとには城隍堂があってその神主は拜美山の山神だったと伝わる話で現在の住民らもこの山を拜美山またはザルミ山といわれていて、今の水営洞と望美洞の間の山を望山(マンサン)とも言います。
望山の「望」字と拜美山の「美」を合わせて出来た名称だといわれています。 望美洞は部族国家時代の居漆山国の中心地で、現在の国軍統合病院を中心にして城郭があったと推測され、朝鮮時代には東莱府南村といったが東莱府南相面に改称されて、日帝時代に東莱郡南面西部里、北門外里に改称されました。

民楽(ミンラク)洞

民楽洞という地名の由來は白山北側のボリジョン集落と白山南側のノルグジ集落の二つの村が約300年前からあって、日帝時代にボリジョン集落を平民洞と呼び、住民が楽に暮しているので民楽と呼んだそうです。
1914年、行政区域改編により、兩方の集落を合わせて民楽洞と言い、東莱郡南面に編入しました。
ノルグジとは今の民楽小學校の東側に水営2号橋がある小高い部分を言い、水営川の方に平地が広がっていました。
ボリジョンは二つの説があり一つは朝鮮時代、左水営の傘下のポイポジンがあったところで、その音が訛傳したものという説と、または水営には「麥穀をしょって行って杖で叩かれに行く」という諺がありましたが,朝鮮時代、左水営の営内の住民が罪を犯して、杖刑を打たれに左水営の官衙に來る時に、他人が犯人の代わりに打たれて報酬に麦を貰い彼らはその麦(韓国語でボリ)を水営民に賣って歸ろうと思ってボリジョン(麦店)を開いたので「ボリジョン」という地名ができたという説があります。